2020年5月22日
新型コロナウイルス(COVID-19)感染症の拡大により、本年4月7日、国は「緊急事態宣言」を発令し、国民は様々な行動の自粛を求められました。不要不急の外出を控え、教育機関は休校、就労は在宅勤務に切り替わる企業もあり、娯楽・商業施設等は休業や短縮営業を要請されました。このように、これまで誰も経験したことのない事態の中で、人々は様々な行動をとります。それらの行動を理解できないと思うことも多くあると思います。
そこで、このコロナ禍での人々の行動に対する素朴な疑問について、本学文学部総合心理科学科の専門家が、心理学の視点からお答えいたします!
今回、身近な「なぜ?」にお答えするのは、文学部総合心理科学科准教授で、比較文化心理学・社会心理学がご専門の、一言英文先生(ひとこと ひでふみ先生)です。
私たちは普段から、ネガティブなできごとが自分、または自分の身近な他者の身にふりかかる可能性を、「事実」より低く見積もって暮らしています。例えば、外出する際に交通事故にあう可能性は厳密にはゼロではないはずが、とりあえず意識に上ることは「今夜のおかずは何にしよう?」であり、交通事故にあうとはまるで思っていないと思います。
つまり、私たちは、ものごとを事実より多少楽観的に考えておかないと、まともな行動が起こせなくなってしまいます。「楽観主義」と呼ばれるこの心理現象は、ネガティブな出来事が自分にふりかからないという見積もりと、ポジティブな出来事が自分に起きるという見積もりを併せ持っています。このように考えると、「コロナ禍はもうピークを過ぎた」とも最近聞かれるようになりましたが、これは、どれほどポジティブな出来事が生じる確率を「事実」より高く見積もっている主張なのでしょうね。
外出自粛という、普段行わない、極めて社会的に制限された生活を続けることは誰にとっても難しいことです。私たちは、実は普段から、友人・知人との直接の交流によって実にさまざまな刺激、精神的な安寧、さらには自分には居場所があるという感覚すら培いながら暮らしています。これらを停止させる生活を続けることは、旅行やパチンコ、すなわち「気晴らし」を必要とするほど、かなりの努力を要するということです。
「ウィルス程度でそこまでしなくても…」と思う方もいるかもしれませんが、実は人類の歴史にとって、ウィルスとの攻防(特に、免疫のためにとる行動)は、社会の成り立ちすら左右する重要な転換点になってきたとする研究もあります。つまり、現在世界中で人類が行っているウィルスに対する免疫行動が並々ならぬ努力を要することは、やりすぎでも何でも無く、生き延びるために妥当な行動といえます。問題は、それをすると破綻と隣合わせになるまで高度に発展した経済活動の中で、私たちは生きているということなのかもしれませんね。
多元的無知という社会心理現象です。人は、個人的には買い占める必要はないと思っていても、「多くの他者が買うだろう」と思っていることで、(限りがあって、無くなると困り、かつすぐ近くのスーパーで買うことができる)トイレットペーパーやティッシュを買おうとします。つまり、このような状況では、デマだとあなたが分かっていることから行動しているというよりは、「皆がどう思っているとあなたが思っていること」から行動しています。人間の社会行動は、個人単独で起きているのではないとも言えますね。
メディアでの議論には多くの人が関わり、そこから出された一定の見識を私たちは入手しています。問題はこの前者の過程で、「集団極性化」が生じることがある点です。これは、集団で一定の答えを紡ぎ出す過程で、より極端な意見が最終的に出される現象です。大規模で複雑な問題ほど単純な答えは無いはずなのに、集団極性化を経た情報は、ひどく単純であったり、過度に楽観的(さっさと緊急事態宣言が解除されて不安になる)、または、悲観的(経済の行く末が分からずイライラする)であったりするというのが問題です。また、SNSとなると、これは人から人へ伝播した情報です。伝播した情報は、介在した人々の価値観や感情、注目した情報などによって、事実からほど遠いものに変貌することがあります。その結果だけを見る場合、もはや事実を認識することは困難になります。
これらに対処するには、批判的な主張や中立的な主張にも目を向ける努力をすること(集団でものごとを決める際は、あえて反対意見を出す人を議論に入れること)、また、出どころの怪しい情報は用いず、根拠となる事実、または、直面した問題や対処についての事実を、フェアな手段で報告する試みを尊重することです。
ある人が、本当は本人を取り巻く状況ゆえにある行動をとった(マスクが売り切れていたため、マスクをせず外出した)としても、その行動を観察した人々は(本来原因を特定することはできないはずなのに)、本人の個人的な判断でそのように行動した(感染リスクなどどうでも良いと判断して、マスクをせず外出したのだろう)と誤認します。これを「基本的帰属錯誤」といい、人に広くに見られる社会心理現象です。
誤認の結果、不道徳的な人だと判断された人に対し、次に私たちは規範を逸脱した者として、義憤(誰か被害者が出ることをしている人に対して怒り感情を感じること)を生じます。義憤自体は、普段は犯罪者や違反者に対してそれを感じることで社会的な秩序を守る健全な感情の働きです。ただし、感染リスクが高まった状況下では、特に他者に対して規範的に行動することを私達は強く期待する心を持つように進化したと言われています。その心は、不確実(例:誰がかかっているか分からない)かつ重要性の高い(例:かかったら自分が死ぬかもしれない)特徴をもつ感染リスクという状況に対する、生存のための心理です。現実的な対処としては、こういった抜き差しならない心があることを認めた上で、相手の状況に思いをはせる努力をすることなのかもしれませんね。